近代日本を代表する「奇想の画家」!犬がかわいい!
近世日本を代表する絵師として知られる長澤蘆雪(1754~1799)。「円山派」の祖として日本画壇に大きな影響を及ぼした絵師・円山応挙の弟子のひとりとして知られてきたが、ここ数十年で蘆雪は応挙と同世代の伊藤若冲や曽我蕭白とともに「奇想の画家」として位置づけられ、高い評価を得ている。
その画風は、黒白/大小の極端な対比や、写実を無視した構図など、師である応挙の作風から逸脱するもの。描かれるものは基本的に明るく軽快な印象であるが、晩年は《山姥》のようなグロテスクかつ陰惨な印象の作品を残すようになった。
個人的には、蘆雪の描く「犬がめっちゃかわいい!」と、推したい。
代表的な作品
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丹波国篠山に生まれる。後記の南紀滞在の際に芦雪自身が、自分の父がはじめ篠山城主(篠山藩)青山下野守(青山忠高)に、その後山城国淀藩に出仕した上杉彦右衛門であると述べたという資料が残っている。同時代の高名な絵師と比べるとその履歴を示す資料は少なく、いつ応挙の弟子になったかさえはっきりとはわからない。現存中で最も早い時期の作「東山名所図屏風」(紙本銀雲淡彩六曲一隻、個人蔵)安永7年(1778年)芦雪25歳の時には応挙に弟子入りしていたことがわかる。ただ、落款から応挙入門以前と思われる作品も発見され、入門前から十分な力量を持っていた。
その性格は奔放で、ある意味快活である一方、傲慢な面があったと伝えられる。そのせいか、「後年応挙に破門された」というような悪評とも言うべき根拠不明な巷説や異常な行動を伝える逸話は多い。その最たるものがその死である。毒殺とも自殺とも言われ、少なくとも普通の死ではなかったとされてきたが、事実は不明である。
その絵は伝えられる性格そのままに、自由奔放、奇抜なもので同時代の曾我蕭白、伊藤若冲とともに「奇想の画家」(辻惟雄評)、「奇想派」などと言われる。黒白、大小の極端な対比や、写実を無視した構図など師である応挙の作風から逸脱しており、この傾向は南紀滞在の折の障壁画にはっきり表れている。作風は基本的に明るく軽快であるが、晩年になって『山姥』のような時折グロテスクで陰惨な印象の作品も残した。
なお、芦雪がしばしば用いる「魚」朱文氷形印は、天明5年(1785年)頃から使い始め、寛政4年(1792年)5月頃に右上が大きく欠損し、作品の制作年代を知る上で指標の一つとなる。この印章に関する逸話として、芦雪が修行時代に寒い冬の朝、往きの途中の小川が凍り、魚がその中に閉じ込められ苦しげであった。気になって帰りに覗いてみると、氷がだいぶ溶け、魚は自由に泳ぎ回っていた。次の日、芦雪が応挙にこのことを話すと、自分も修行時代は苦しかったが、そのうち次第に氷が溶けるように画の自由を得たのだと諭され、これを肝に銘じるため終生この印を使い続けたという。「魚」朱文氷形印は現存しているが、実際に故意に割った形跡があり、おそらく画の自由を得た決意表明として芦雪自身が故意に割ったと考えられる
姓については「長沢」「長澤」、号については「芦雪」「蘆雪」の両様の表記が行われている。