男子小便器をアートにしたマルセル・デュシャン
マルセル・デュシャン(1887~1968)フランス生まれの芸術家。2人の兄も美術家である。
20世紀の美術に最も影響を与えた作家の一人と言われ、コンセプチュアル・アート、オプ・アートなど現代美術の先駆けとも見なされる作品を手がけていった。
画家として活動を始めたが、1910年前半には油彩画の制作は放棄したと言われている。
油絵を放棄した後、「レディ・メイド」と称する既製品(または既製品に少し手を加えたもの)による 作品を散発的に発表し、大いに衝撃を与えた。
代表的な作品
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マルセル・デュシャンは芸術の産業化に過敏に反応していたアーティストだった。19世紀前までは宗教画としてあったものが、どんどん産業化され、お金ど取引されるようになり、それがはたして芸術なのか?と提唱した芸術家でもある。
たとえば、マルセル・デュシャン1917年の作品「泉」は男性用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」というサインを書いただけのものが芸術と呼べるのか!と物議をもたらした。
日常使用されている小便器を、切り離し置くことで「見方」を変える。そうすることで、今まで使用していたものの意味を失い、置かれている状況が変化する。そして、見ている人々の認識を変える。とマルセル・デュシャンは主張している。
これは何かというと、たとえば日常の風景を絵に切り取ることで、見る側の認識が変わる。また、切り取られた部分としても変わる。そもそも芸術というのはそこなんだとマルセル・デュシャンは感じていた。
大量生産された既製品を用いた一連のオブジェ作品を人々に認識させたのが、マルセル・デュシャンの作品だと言える。
今まで「聖画像」もキリストという象徴を切り取って大切にしてきたものをお金で売り買いをすることに警鐘を鳴らしたのもマルセル・デュシャンの「泉」という作品だった。
とかく芸術品、美術品は「きれい」で終わるものだが、だが、世の中の優れている芸術作品は、本当に綺麗だけでいいのか?優れているだけでいいのか?本当はその裏に何かがあったり、本当に表現したいのは、恐れだったり、悲しみだったりするものだ。
鑑賞する人が、自分の過去の経験や知識をもってマルセル・デュシャンの作品を見たとき、美的要素や芸術的要素を探そうとするわけですが頭の中が「???」になってしまう。
いくら考えても「美」を感じられない。しかし、この時点で鑑賞者は思考しているということになる。鑑賞者の思考を呼び覚ますという点で優れた芸術品と同じ効果ではないか、新しい見解だと言われている。
また、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』という通称「大ガラス」と呼ばれる作品は、結局、未完のまま1923年に放棄してしまった。そして大好きなチェスに没頭していったのだ。
また、「自転車の車輪」という作品では、丸椅子に自転車の車輪を取り付けることで、双方の機能を失わさせ、それを展示しただけの作品。しかも、この作品はマルセル・デュシャン自身、手を加えていないのにマルセル・デュシャンの作品としている。
マルセル・デュシャン曰く「これは日常品なのに機能を失って、美術品となった。これは何なんだ」という作用を起こしている。
「芸術を捨てた芸術家」として生前より神話化される傾向のあったデュシャンに批判的な声もあったが、没後発表された『(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ』は、周囲を驚かせ、墓碑銘に刻まれた「死ぬのはいつも他人ばかり」という言葉も有名である。