若くして才能を開花したミレイの輝かしき画家人生に迫る
ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829年6月8日~1896年8月13日)は、19世紀のイギリスの画家であり、ラファエル前派の一員に数えられている。
9歳でロンドンの画廊に入り、11歳でロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学の許可が出されたのは、当然の如く史上最年少だ。
ラファエル前派であるミレイは、初期ルネサンスやラテンドル美術を模範し、ありのままの自然を正確に写し出そうとした画家である。
代表的な作品
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1829年にイングランド南部のサザンプトンに馬具製造販売業者の息子として生まれた。幼少期から画才を確信した両親は、ミレイに優れた教育を与えるために1839年にロンドンへ転居した。
1846年には、16歳でロイヤル・アカデミーの年次展に入賞した。1848年、ウィリアム・ホルマン・ハントやダンテ・ゲイブリエル・ロセッティと共に「ラファエル前派」を結成することに。
ミレイがこのパイオニア的な画法で描いた最初の作品が「ロレンツォとイザベラ」であり、1850年に描かれた「両親の家のキリスト」には非難があびせられた。
しかし、1852年のロイヤル・アカデミー展に出品された「オフィーリア」はとても高い評価を得ている。この作品は夏目漱石が「草枕」のなかで言及しており、日本人にも馴染み深い作品となっているのではないだろうか。
非難をあびた後は、聖書を題材とした絵は描かなくなり、文学やオペラなどのテーマを選ぶことが多くなったという。天才画家とはいえ、まだ若者。この出来事は非常にショックであったことが想像できる。
若くして才能を開花させたミレイは、1853年には王立アカデミーの準会員となった。
プライベートは、1855年にユーフィミアと結婚し、1856年、第一子が生まれるが、後に離婚。8人の子どもを養わなければならなくなったミレイは画風をジュシュア・レイノルズに寄せ、世俗的なテーマで人気画家となる。
ミレイは、後半生から風景画も描くようになる。特にスコットランドの風景を好んでいたようだ。「穏やかな天気」は写真と判別できないほどである。
政府や王室はミレイの偉業を称え、1885年にイギリス出身の画家として初めて世襲貴族に除したのだ。
1896年には、ロイヤル・アカデミーの会長に選出されるが、その年の8月にこの世を去ってしまったため、実務に関わることは殆どなかったという。
若くして天才の異名をもったミレイの作品は、見惚れるものばかりである。