黄金様式を用いた豪華で官能的な作風の革命児
1862年ウィーン近郊の家で生まれ、父は金工師(金工細工の職人)で、 7人兄弟の2番目の子供として生まれた。
14才の時に、ウィーンの工芸美術学校に入学し、そこで頭角を現していくに伴い、 ウィーンは、近代化に伴い建築ラッシュで、劇場の装飾という仕事が多くあり、 学校で勉強をする傍ら、劇場の天井画や 美術史美術館の壁画とかを描くとういう、 仕事を受けるようになり 、10~20代という若手の頃から画家として名声を集めるようになった。
しかし、当時ウィーンの画壇に所属していたが保守的な考えに行き詰まりを感じ自分で 「ウィーン分離派」 を立ち上げ活動を続けた。
代表的な作品
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19世紀後半は、ヨーロッパでは美術においてさまざまな表現が生まれた時代で、 伝統的なアカデミックな表現から抜け出して、さまざまなものを生み出そうという 機運がフランスのパリを中心にヨーロッパ各都市で活発になった時代だった。
そんな時代背景の中、クリムトが活動拠点にしたウィーンも芸術運動が 盛んになっていたと同時にウィーンという都市自体も大きな発展と遂げてる時代だった。
それに伴って、美術も「新しいものを生み出そう」という機運が高まっていた。
同時代、パリではモネがいたりゴッホもいたり、いわゆる印象派とか、多くの画家たちが 活発に活動をしていた。パリに比べウィーンは若干、保守的な面もあり、他の国の美術を 取り入れるといった柔軟な感性があまりなかった。
その中でクリムトは、新しく自由な、時代に合った芸術表現をしていこう!という運動の 中心となって作品を作っていった画家である。
出発点は、 保守的な画壇からはじまり、クラシック表現を経て名を上げていき、 だんだん新しいものにチャレンジしていくようになった。
当時 クリムト は「異端児」、「革新的な改革派」とも呼ばれていた。
1897年35才の時、ウィーンの画壇を離れ「ウィーン分離派」を立ち上げ、 「分離」とは「元の集団から分離する」という意味で、クリムトを中心とした 若手の芸術家たちが、新しいグループを作り活動を始めた。
活動は、展覧会を開いたり、同時代の画家たちの作品をウィーンで紹介したりして、 活動の幅を広げていった。
その活動を通じて、クリムト自身の作風も写実的な表現に装飾的要素を加えた作品に変化していった。
もちろん、賛成派も反対派も現れたので、クリムト自身、ハードな活動を強いられたり、厳しい立場ではあったが、55才で亡くなるまで、アカデミックなものに抵抗するというクリムトのスタンスは続いた。
いつも何かを発表すると賛否両論があったが、同志やパトロン、コレクターとクリムトの活動を支持してくれる人も 多くいたが、極端に官能的だったり、女性が裸体をさらしている作風など、なまめかしい表現自体が伝統的でないということに対して批判を受けることも多かった。
あまりにも批判の大きいものに対しては、クリムト自身が「やめる」と決断したものもある。
とはいえ、クリムトの「黄金様式」と呼ばれる油彩画に本物の金箔を使用して、 画面に装飾的な効果をもたらすといった手法を用いて、黄金に埋もれるように描かれた人物像や、世紀末の退廃的な雰囲気をたたえ、 現代においても、豪華で官能的な作風は多くの人を魅了してやまない。