アート

葛飾北斎

世界が認めた破天荒な浮世絵師葛飾北斎

葛飾北斎(1760~1849) 武蔵国葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区の一角)の 百姓の家に生まれる。

川村時太郎(ときたろう)として幼少は育ち、のち、鉄蔵(てつぞう)と称した。通称は中島八右衛門であった。浮世絵師として世界の多くの画家たちに影響を与え、日本でも超有名な画家である。

代表的な作品

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1764年 中島伊勢の養子となるが、実子に家督を譲り、家を出る。6才の頃より絵を描き始め、貸本屋で丁稚奉公をしながら画道を学び、19才の頃に役者似顔絵の創始者として知られる浮世絵師「勝川春章」に入門。これ以後、春章から学んだ、役者絵を多く描いた。また、この時期挿絵作家として、曲亭馬琴などに挿絵を提供したり、黄表紙(成人向きに仕立てられたもの)の挿絵も書いていた。

34才の頃に勝川春章が他界。その後、葛飾北斎は「加納派」にも入門するが、間もなくそこを去り、翌年には勝川家からも破門されてしまう。

その後、寛政の改革により、黄表紙の取り調べがはじまり、変わって読み本や教科本が人気を博すようになると葛飾北斎もそれに合わせて挿絵を提供していった。

また、西洋風の表現を取り入れ始めたのもこの頃だと言われています。この時期、葛飾北斎は、肉筆画の美人を多く手掛けていき、二美人図は、当時の代表作と言えます。

50才を過ぎた頃になると、弟子絵の教育のために絵手本を多く製作しています。「北斎漫画」はその代表的なものであり、葛飾北斎54才のころから死後に至るまで、 15刊4000図に渡って刊行され続けました。

葛飾北斎70代の前半は、錦絵の全盛期であり、風景画のシリーズで有名な 「冨獄三十六景」が生み出されています。中でも、赤富士で人気の「凱風快晴」や葛飾北斎の代表作として「神奈川沖浪裏」は、 多くの人に知られています。

いずれも葛飾北斎の本領である構図の巧みさと鮮烈な色使いが特徴です。

80才以後の最晩年に至ると、再び肉筆画の作品が増え、風景画から離れた花鳥画が多く残されています。

1849年 90才で他界するまで、名前や住所、作風を変えながらも我道を邁進し続けたのでした。

葛飾北斎は、死後も世界中の多くの画家たちに影響を与え、森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。また。葛飾北斎は1生の間に、なんと30回もの改号をしている。「春朗」「群馬亭」「北斎」「宗理」「可侯」「辰斎」「辰政(ときまさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」などと、それらの組み合わせである。北斎研究家の安田剛蔵は、北斎の号を主・副に分け、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主な号で、それ以外の「画狂人」などは副次的な号とした。

また、転居も93回と多く、一日に3回引っ越したこともあるという逸話も残っている。

北斎が転居を繰り返したのは、葛飾北斎と、離縁して実家に出戻りした 娘のお栄(葛飾応為)と2人で、絵を描くことに集中するあまり、 部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからとも言われている。一般人から見ると、実に破天荒な生き方に見えるが葛飾北斎にしてみれば、最高に充実した人生だったのではないだろうか、とも語られている。

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