日常の裏に潜む神秘や謎を描き続けたジョルジュ・デ・キリコ
ジョルジュ・デ・キリコ(1888年~1978年)イタリアの画家であり彫刻家。
自らの作品を「形而上絵画」と呼び、後のシュルレアリスムに大きな影響を与えた。
代表的な作品
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1888年 ギリシャのテッサリアのヴォロスで生まれた。
シチリア人の父エヴァリスト・デ・キリコは、鉄道の敷設を指揮する技師であった。
1891年 弟アンドレア誕生後、8才で画家を志し、1900年 アテネの理工科学校に通いながら、最初の静物画を描いていたが1905年 キリコ17才の時、父の死亡により、翌年家族とともに、ギリシャを離れフィレンツェに移住。
1907年 ドイツのミューヘン美術アカデミーに入学し、ニーチェやショーペンハウエルの 思想家の影響を大きく受ける。
ニーチェの思想は、神や理性を否定したもので、人間はルサンチマン(恨みや嫉妬などの負の感情)によって 突き動かされる言うもので、この頃世紀末から世界大戦にかけて多くの人が虚無感を抱いていたため、 感性豊かな芸術家達の心をも掴みました。
その後、フィレンツェに戻り、最初の形而上絵画「ある秋の午後の謎」を描く。後にこの絵が転換点ではないかと言われるようになる。
しかし、戦争のストレスを受け、キリコは神経衰弱で、入院しすることになり、退院後、前衛美術雑誌「造形的価値」を創刊し、さらに、ローマで個展を開きましたが世間からは良い評価を受けることはできませんでした。
1912年 作品をサロン・ドートンヌに出品。
当時パリの若手画家の代弁者であり、詩人ギョーム・アポリネールに絶賛され、キリコはアポリネールを介しピカソなど多くの画家と親交を結ぶことになった。
ジョルジュ・デ・キリコは「謎以外になにが愛せようか」と言うほど、謎めいたものに惹かれる自らの性格を熟知していた。
それゆえ「自然現象の背後にある認識出来ない世界」として表現したり 「目に見える日常の裏に潜む神秘や謎」「不安、憂鬱といった感情」を表現しつづけていったのが、ジョルジュ・デ・キリコの作品であろう。
ジョルジュ・デ・キリコの作品「通りの神秘と憂鬱」という作品は、観る者に淡い郷愁を 呼び寄せながら、白昼夢のような不安をも抱かせる。
独特の遠近法で描かれた白く長い建物、輪で遊ぶ少女と怪しげな人影。シュルリアリズムに大きな影響を与えたジョルジュ・デ・キリコのイマジネーションは、どこから生まれたのだろう?
こんな言葉が残っている「仕事場は私の夢を実現する場所。誰にも邪魔されたくない。アトリエの中にこもっているだけで、心が落ち着く」と。
1942年、ミラノの家を引き払い、フィレンツェへ移住。翌年、ローマへ移住。1978年、90歳の誕生日を祝った後、11月20日心臓発作のため他界。
多くの画家たちに影響を与えたジョルジュ・デ・キリコだが、晩年は扱う色彩も明るくなり、キリコ独特の「不安や扇情感覚」が薄れていった。 残念と感じる人も多いが、人として穏やかな人生を過ごせるようになったのではとも言えるのではないだろうか。