円山派最後の大家であり、明治の画壇を先導した教育者として知られる川端玉章を紹介します。
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こんにちは。人から分かる3分美術史。
今日は川端玉章について勉強していきましょう。
川端玉章。1842年生まれ。円山派最後の大家であり、明治の画壇を先導した教育者として知られます。
玉章は京都の蒔絵師・川端左兵衛の息子として生まれました。
11歳の頃より、円山応挙の孫弟子にあたる円山派の画家、中島来章に入門。
玉章と同時期に入門した弟弟子には幸野楳嶺がいました。
また玉章は、南画家の小田海僊にも学びます。
続いて24歳の頃より江戸に居を移し、チャールズ・ワーグマンと高橋由一に油絵も学んでいます。
玉章25歳となる1867年には、大政奉還がなされ、明治政府が樹立しました。
1882年に政府主導で行われた第一回内国絵画共進会に出品し、褒賞を受賞。続く1884年の第二回においても受賞しました。
1886年にはフェノロサと岡倉天心によって東京美術学校が開校。
3年後の1888年には玉章も円山派の教師として迎えられました。
玉章は、天真画塾という私塾を持っており、1891年には結城素明、木村武山、平福百穂、杉浦非水を育てています。
1891年に玉章は、画壇の後進育成のために画塾同士の交流を働きかけ、日本青年絵画協会を設立しました。
玉章の作品を見ていきましょう。
玉章の代表作は「ナイアガラ瀑布図」。
樹木や霧の表現は円山派を受け継ぎながらも、西洋画の影響を受けた低い地平線と奥行きのある構図となっています。
また、ナイアガラの滝という主題の目新しさもあり、本作を特徴的なものとしています。
玉章はその後も、円山派の伝統を受け継ぐ大作家として君臨しつつも、教育者としての活動を続け、晩年となる1910年には川端画学校を設立。
玉章は大正2年となる1913年に亡くなりますが、画学校は息子の川端玉雪、藤島武二が後を継ぎ、太平洋戦争中に廃校となるまで、黒澤明、横山操ら俊英を輩出したのでした。
以上!