人から分かる3分美術史

3分でわかる岡倉天心(人から分かる3分美術史100)

日本の近代美術制度を築いた思想家・運動家として知られる岡倉天心を紹介します。

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こんにちは。人から分かる3分美術史。
今日は岡倉天心について勉強していきましょう。
岡倉天心。1863年生まれ。日本の近代美術制度を築いた思想家・運動家として知られます。

天心は江戸末期の横浜で、元福井藩士の息子として生まれました。天心の父親は、福井藩の海外貿易拠点であった「石川屋」に勤めていました。そこで天心も石川屋に訪れる外国人客に親しみ、また、7歳から英語教育を受けています。
1875年、天心は東京大学に入学。アーネスト・フェノロサに政治学と経済学を習います。フェノロサは、廃仏毀釈により仏像や寺院が失われていくなかで、日本美術に興味を持ち、研究を行っていました。そこで天心は、フェノロサの通訳としてともに研究活動を行うようになります。また、天心は大学卒業後、文部省に勤務。天心は、フェノロサや文部省の上司である九鬼隆一の側近として、日本の近代化政策に伴う美術行政に深く関わっていくこととなります。
続いて1889年には、現在の東京藝術大学にあたる東京美術学校を開校。教師に橋本雅邦、川端玉章、高村光雲、森鴎外らを招聘し、天心は校長に就任します。ここで天心は、日本初の包括的な美術史論として知られる「日本美術史」を講義するなど、日本の美術教育の基礎を築いていきます。
しかし、間も無く天心は、久米桂一郎、福地復一らと美術教育方針が対立。また、天心は九鬼の妻であった波津子と不倫関係になったことで、天心と九鬼の関係が悪化します。その結果、1898年に天心は失脚し、東京美術学校長を辞職することとなります。
そこで天心は、連座して辞職した教師たちとともに、在野の美術団体である日本美術院を創設しました。
その後の天心は、日本美術院の経営に苦心しながらも、ロビンドロナト・タゴールらインド・ベンガルの知識人たち、イザベラ・スチュアート・ガードナーらアメリカ・ボストンの文化人らと交友するなど、国際的な活動を続けました。

天心は1913年に52歳で亡くなります。それまでに、現代日本の美術行政、美術教育を築いた巨人として、大きな影響を残したのでした。

以上!

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