人から分かる3分美術史

3分でわかるジャン=ミシェル・バスキア(人から分かる3分美術史129)

アメリカの画家であり、若くして亡くなったポップアートの旗手の一人として知られるバスキアを紹介します。

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こんにちは。人から分かる3分美術史。
今日はバスキアについて勉強していきましょう。
ジャン=ミシェル・バスキア。1960年生まれ。アメリカの画家であり、若くして亡くなったポップアートの旗手の一人として知られます。

バスキアは、アメリカ・ニューヨーク市のブルックリンで生まれました。父親はハイチ人、母親はプエルトリコ人に連なる家系であり、幼い頃より母親と美術館に通って過ごしました。
間も無く両親が離婚すると、バスキアは父親とともに住まいを転々とすることとなりました。1977年、16歳のバスキアは友人のアル・ディアスとともに「SAMO」としての活動を開始します。
その頃の作品が、「SAMO is Dead」。1978年の作品です。SAMOは物質主義を批判するメッセージをグラフィティとして街中に書きました。
1978年、バスキアは父親と決別し、絵葉書やTシャツを売って日銭を稼ぐ生活となります。そんななかバスキアは、キース・ヘリングやヴィンセント・ギャロ、ディエゴ・コルテスらと知り合いました。
1980年にはコルテスの誘いで、バスキアにとって初めての大規模な展覧会参加となる「タイムズ・スクエア・ショウ」が開催。ここでバスキアの名は広く知られるようになり、翌年には、最初の個展も開催しました。
この頃の作品が「Profit I」。1982年、バスキア21歳頃の作品です。その作風にはサイ・トゥオンブリーやジャン・デュビュッフェの影響が見られます。
1983年、22歳のバスキアはアンディ・ウォーホルと知り合います。二人は意気投合し、ウォーホルはバスキアを支援。また、ともに制作を行うようになります。

バスキアの作品を見ていきましょう。
「ペガサス」。1987年、バスキア26歳頃の作品です。ヘンリー・ドレイファスやベートーヴェンなど、様々な人物の言葉や記号をコラージュしています。

後年のバスキアは薬物依存と孤独の傾向を強めていき、ウォーホルが亡くなると意気消沈。その翌年となる1988年、バスキアは薬物中毒で27歳で亡くなります。現代では、グラフィティから出発した荒々しい筆法ながらも、記号や象徴性を用いた理知的な画家として評価されています。

以上!

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