哲学

「南無阿弥陀仏」の阿弥陀様はどんな仏様?

ひと昔前のアニメなどでお年寄りがお祈りするセリフといえば、「なんまいだぶ なんまいだぶ」だったろう。漢字で書くと「南無阿弥陀仏」だ。しかし、この言葉の意味を正確に知っている人は多くないだろう。なぜ、助けてほしいときに「南無阿弥陀仏」を唱えるのか。実は信じられないほど尊い「誓い」を立てた阿弥陀仏について、今回はご紹介していく。

生きとし生けるもの、すべてを救いたいと願う阿弥陀仏

阿弥陀仏はどんな仏様なのか?

仏教の世界には、様々な仏様がいる。大日如来、阿弥陀仏、観音菩薩、など、聞いたことがある名前もあるだろう。仏の世界で、悟りに到達した存在は「如来」「仏」、悟りを開きつつもまだ修行をつづけている存在が「菩薩」と区別される。阿弥陀仏は阿弥陀如来とも呼ばれ、「如来」「仏」のグループに属する。以下、阿弥陀仏と呼ぶことにしよう。

阿弥陀仏の仏像は、多くの場合、上半身に後光を背負った形で描かれる。この後光は、世界の隅々まで照らす救いの光だ。線を沢山引いてくじにする「あみだくじ」は、もともと阿弥陀仏の後光と同じ放射状の線に、横線を足して書かれ、阿弥陀仏の慈悲は平等であるという考えから生まれたものだ。普段意識していなくても、身近な存在だということがわかる。

阿弥陀仏の誓い「本願」はとても尊い願いだった

阿弥陀仏は出家する前、ある国の国王だったが、人々を救うため出家し「法蔵」という名となった。そして先に仏として悟りを得ていた世自在王仏に、「一切衆生を救えないのなら、私は仏にならない」という誓いを立てた。一切衆生とは、生きとし生けるもの全てのことだ。もちろん我々人間も含む。修行をし、善行を積んだものだけではなく、どんな人間(凡夫/ぼんぷ)も分け隔てなく救うと誓った。

上記の誓いを含め、阿弥陀仏が理想の浄土を作るため、自分自身に48の誓いを立てた。「四十八願」と呼ばれ、阿弥陀仏自身がどんな場所にも届く光を持つ「無量光仏」となること、永遠の寿命をもつ「無量寿仏」となること、少なくとも一生に10回の念仏を唱えた人は必ず往生できる(浄土に生まれる)ようにする、ということなどがある。

「苦しんでいる人を救おう」と考える神や救世主は多いだろうが、阿弥陀仏のように、「どんな人間でも分け隔てなく救おう」と考える存在は少ないだろう。生きとし生けるものほぼすべてが、自分自身の力のみで悟りを得ることはできない、という気づきと、それでも一切衆生を救いたいと願う慈悲の気持ちから生まれた尊い願いだ。

「南無阿弥陀仏」とはどんな意味?

「南無阿弥陀仏」は念仏と呼ばれ、日本の仏教用語のなかで、最も広く親しまれているフレーズのひとつだろう。「南無」はサンスクリット語で「~に帰依します」という意味だ。元々の発音、「ナモ」が中国で漢字を当てられ、日本に入ってきた。「南無阿弥陀仏」はつまり、「阿弥陀仏に帰依します」「阿弥陀仏を信じます」という意味になる。

前述にある通り、阿弥陀仏は少なくとも10回念仏を唱えた人は必ず往生できるようにするという誓いを立て、それを成し遂げ、「仏」となった。つまり、念仏を10回唱えれば、どんな人間も往生できる。

悟りを得て、極楽浄土に行くためのハードルをものすごく下げてくれたのが阿弥陀仏であり、「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えることで、誰もがその救いの光を受けることができるのだ。

極楽浄土とはどんなところ?

阿弥陀仏による救いは、一切衆生を極楽浄土に迎え、そこで悟りを開けるよう修行し、平穏な日々を過ごしてもらうことだ。[1]そんな極楽浄土とは、どんな場所だろうか。

極楽浄土の描写は「仏説阿弥陀経」に詳しく描かれている。極楽浄土は、西方にあり、十万億の仏の国の向こうにあるとされる。煩悩があるものはたどり着けないが、人が亡くなるとき、阿弥陀仏が迎えに来て、連れて行ってくれる。

「仏説阿弥陀経」によると、きらびやかな風景が浮かび上がる。七つの宝石でできた池があり、甘く清い八功徳水(はっくどくすい)を湛えている。その底は、すべて黄金の砂。大きな蓮の花は青、赤、黄、白それぞれの色を輝かせるように咲かせ、とてもよい香りがする。四方には宝石で出来た階段が伸び、その先にも金銀水晶などで飾られた高殿がある。

美しい音楽が流れる極楽浄土で、人々は花の雨が降るので、その花びらを仏にお供えし、食事のあとは体力をつけるため散歩をする。

仏が教えを心地よく伝えるために用意された美しい鳥たちがいて、とてもいい声でさえずり、その声を聞くと仏を念じ、法を念じ、僧を念じる修行ができる。

光り輝く世界で心地よく穏やかに過ごすだけで修行ができる、いうなればラグジュアリーな環境が揃っているのである。

「自力」?「他力」? 念仏を唱える意味合いは宗派によって少し違う

「自力」の念仏を唱える浄土宗

阿弥陀仏を本尊とする宗派は「浄土宗」と「浄土真宗」がある。元々は法然上人が開いた「浄土宗」において、念仏を唱えさえすれば、極楽浄土に生まれることができるという教えが広まった。

浄土宗において、念仏以外の修行は行うことが難しく、全ての人を救いたいと願う阿弥陀仏の本願とは異なると解釈された。念仏を唱えることだけでいいから、阿弥陀仏の本願の力で救われよう、というのが浄土宗の教えだ。阿弥陀仏の絶大な功徳にすべてを任せるということは、人間が多少の我慢をしたり、善行をしたりということとは比べ物にならない。

浄土宗では、念仏を唱え、阿弥陀仏を信じることでより極楽浄土に近づける。浄土宗開祖の法然上人は和歌に「月かげのいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞすむ」と詠んだ。月かげ(月光)の恵みは、見上げることをする人が受け取れるものだと説いている。

つまり念仏を唱える人と唱えない人には差が生まれるわけだ。極楽浄土に生まれるために、厳しい修行はなく、念仏のみでいいとはいえ、自分の力が影響する、という観点から、「自力」の念仏と言われている。

浄土真宗は「絶対他力」の念仏

「自力」の念仏に対して、浄土真宗は「絶対他力」の念仏だ。阿弥陀仏の本願はすべての衆生を救うことなので、一切を阿弥陀仏にお任せする。阿弥陀仏の力=他力である。自分が何回念仏を唱えたか、唱えなかったかは関係なく、他力によって誰もが必ず救われるという考え方だ。阿弥陀仏の大いなる本願を信じ、ゆだねることが大切とされている。

なので、浄土真宗の念仏は、救われるためにするのではなく、阿弥陀仏にお任せしているということの感謝の想いを込めて発せられる。これを「他力」の念仏という。

慈悲の心を感じる人間に訪れる幸福

日々の生活の中で、自分のことを否定してしまう瞬間は誰にもあるだろう。筆者にも自分自身がもっと違う自分ならと願ったり、まだ本気を出していないだけとうそぶくこともよくある。

怠惰だったり、短気だったり、我慢弱かったりと、ダメな自分に飽き飽きすることもあるだろう。

そんな時、ぜひ、全ての存在を救おうと奔走する阿弥陀仏の姿を思い出してほしい。あなたが救われることを切に願い、それを必ず約束してくれる存在がいると感じられれば、孤独感に苛まれることも減るのではないだろうか。

あなたの知らないところで、阿弥陀仏は慈悲の光で世界を照らし続け、誰にも平等に救いのチャンスをもたらしてくれる。極楽浄土に生まれるのは死後であるが、生きている間はその慈悲を信じ、自分自身が阿弥陀仏に愛される価値のある存在だということを、折々意識してみてほしい。それこそが、阿弥陀仏の慈悲による幸せであり、心穏やかに暮らせる秘訣だろう。

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[1] https://takimotobukkodo.co.jp/column/%E6%A5%B5%E6%A5%BD%E6%B5%84%E5%9C%9F%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%A9%E3%81%86%E9%81%95%E3%81%86%E3%81%AE%EF%BC%9F%E3%80%90%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97%E3%80%91#:~:text=%E6%A5%B5%E6%A5%BD%E6%B5%84%E5%9C%9F%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E5%A0%B4%E6%89%80&text=%E9%BB%84%E9%87%91%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E3%81%A7%E3%81%A7%E3%81%8D,%E8%8A%B1%E3%81%8C%E5%92%B2%E3%81%8D%E8%AA%87%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
[2] https://www.osaka-amida48.net/index.php?%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%A8%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%A1%98

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