哲学

仏教の四苦は「生老病死」。生きることも苦しみなの?

「物事が上手く進まず苦労する」という意味で使われがちな「四苦八苦」という言葉。実は仏教用語だということはご存じだろうか。身近でよく使う言葉ながら、実はブッダの悟りに基づいた人生の本質を表す深い言葉だ。ブッダは「苦」を超越することを説いている。「苦」を超越するとはどういうことなのか。今回は、「四苦八苦」について解説していこう。[1]

「四苦八苦」って何?

そもそも「苦」は苦しみという意味なのか

まずは「四苦八苦」の「苦」の意味からご紹介しよう。生きていく上で、「苦しみ」というとあなたはどんなことを場面を思い起こすだろうか。日常生活を送っていると、お腹がすいたり、トイレに行きたくなったり、仕事で疲れたり、と「苦しい」と感じる場面は少なくない。しかし、これらの「苦しい」という気持ちは「四苦八苦」の「苦」には当てはまらない。

なぜなら、空腹や、トイレや、疲労は解決する手段があるからだ。空腹なら食事を取ればよく、トイレに行きたければ行けばいい。疲れたら休むこともできる。もちろん、様々な事情からすぐに単純な解決ができないことも多いかもしれない。しかし、解決する選択肢は必ずある。

これに対し、「四苦八苦」の「苦」は解決することができないものだ。人間として生を受けた以上、富豪であろうが天才であろうが、誰一人避けて通ることのできない「苦しみ」。それが「四苦八苦」の「苦」である。

「四苦」は人間として生まれたものの定め

「四苦」は「生老病死」とされている。ひとつひとつ見ていこう。

「生」とは「生きること」ではなく「どのような環境に生まれるか」である。自分が生まれる地域や家庭を選べる人間は一人もいない。誰しもが出生にまつわる背景を生まれた瞬間に背負って生きていく。それが一つ目の「苦」である。

次の「老」も、単に高齢になって腰が痛くなったり目が見えなくなる、ということではない。「年を取って体が変化していく」という意味だ。どの年齢においても変化しつづけ、若返ることはできない。これも万人に共通の「苦」だ。

「病」はその名の通り、「病気」も含む、「事故やトラブル」の意味である。病気も事故も、どんなに気を付けていても、巻き込まれてしまうことはある。100%の健康法も事故対策もないことから「苦」に数えられている。

そして最後の「死」。これも古今東西、誰も死なずにいた人はいない。

「四苦」の共通項は、避けて通れないことに加えて、誰もがひとりひとり、自分の身で背負っているという点だ。

他の「苦」は自分自身の外に原因があって生まれる

残りは「八苦」ではなく「四苦」

「四苦八苦」という文字から、「苦」は合計で12種類あるように見えるが、先に述べた「生老病死」以外の「苦」はあと4種類だ。
「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく」「求不得苦(ぐふとっく)」「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」。「生老病死」が自分一人に起因しているのに対し、これら4つの苦は自分と他の存在の関係性から生まれる「苦」だ。

「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」それぞれどんな「苦」?

まず「愛別離苦」。これは「愛する人と別れる苦」だ。家族、恋人、友人、仕事の仲間など、親しく大切に思う人と出会うことは人生の喜びだが、一生涯を全員と共にすることはできない。いつか別れが待っている。別れるときの苦しみは、喜びに比例して大きなものになるだろう。

反対に「怨憎会苦」は、憎らしい人に出会ってしまう苦しみだ。どんな聖人君子でも「嫌い」という感情を抱く相手はいるだろう。出会ってしまったあとはともかく、出会ってしまうこと自体は避けられない。

「求不得苦」は、求めても得られない苦しみのことだ。人にはさまざまな欲求があるが、それらすべてを満たすことはできない。有形無形を問わず、「欲しい」と願うものが手に入らないことで、思い悩むのが人の常である。

最後の「五蘊盛苦」は、健康であればこそ、身体感覚や心がままならない「苦」だ。五蘊というのが少し難しい表現だが、五つの心身の動きをまとめた言葉になる。健康な体で、映像や音を感じ、それらがなんなのかイメージし、対象物をどうするか判断し、総合的な認識をするという心身の動きによって生まれる「苦」のことだ。食欲や性欲に翻弄されるとき、最も感じられる「苦」だろう。

[2]

受け入れ超越すべき四苦八苦

幸せへの近道は四苦八苦を超越すること

生まれた以上誰も避けて通れない苦しみがある、と言われてしまうと、それだけで悲観的になってしまいそうだ。しかし、四苦八苦を知ることにより、少なくとも二つの活路が見出される。ひとつは、四苦八苦以外の苦しみは、自分自身の選択で解消することができる、ということだ。空腹になったら食べ、トイレに行き、休息を取ればいい。解決できることは、早々に行動して解決すればいい。

もうひとつは、ブッダは四苦八苦をなくすのではなく、超越する方法を見出し、悟りを開いた。悟りをすぐに開くことはできないが、四苦八苦を受け入れ、乗り越えていく方法を模索することは我々にもできるだろう。

我が子を失った母親にブッダが説いた生きる道とは

逃れることのできない四苦八苦の苦しみから、どのように人は救われればよいのか。それをよく表したブッダの逸話がある。

ある貧しい家の女が結婚し、子供が産まれた。大変かわいらしい男の子だったが、歩けるようになったころ、突然亡くなってしまった。

女は悲しみに暮れ、男の子の亡骸を抱いて町中を泣き歩き、「誰かこの子を生き返らせる薬をください」と頼んで回った。哀れに思った村人が、ブッダのところへ行くといいと教えた。ブッダは女の話を聞くと、
「白いカラシの種がひと粒あればいい。ただし、その家からひとりの死者も出したことのない家からもらってくるのだ」と教えた。

白いカラシの種はどこの家にもあるものだったので、女は村中を尋ねまわった。しかし、身内から死者を出したことのない家は見つからない。女は、親族を失ったことのない家など存在しないのだと初めて気づいた。
ブッダのところに戻ると、ブッダが女に尋ねた。

「カラシの種はみつかったかね」
「いいえ。どの家も死者を出したことがありました。身内の死を経験していない家はありませんでした」
それを聞いたブッダはこう答えた。

「その通りだ。あなたはこれまで無知ゆえに、我が子を失って悲しい想いをしているのは自分だけだと思い込んでいた。しかし、幼い子だろうと、老いたものだろうと、人間として産まれた以上、死からは逃れられない。これは人間の宿命なのだ」
女は、生まれてきた命は必ず死ぬという普遍的な事実を理解し、自分の願いがその普遍性に反するないものねだりだったことに気が付いた。

ブッダは、子供を生き返らせるのではなく、人間としての宿命を母親に教えることで、母親を救ったのだ。

宿命としての「苦」は誰もが通る避けようのない道

「四苦八苦」を見定めて、「苦」を受け入れる

「苦」から逃げることはできないが、それゆえに上手に受け入れることで、幸福な人生を歩むことができる。

たとえば、「愛別離苦」。失恋したとき、「自分の性格のせいで失恋した」「一体何が悪かったのだろう」と思い悩むことがあるだろう。しかし、元々人間は、愛する者といつか別れなくてはいけないという運命のもと、生きている。自分自身に原因を探して悩むよりも、別れることが苦しいくらい人を愛せたことを誇りに思い、前へ進む。そんな方法を選んではどうだろうか。

ひとりで悩まない、という方法も。「苦」は分かち合える

誰もが突き当たる「四苦八苦」。どんなに上手く生きているように見える人間でも、「苦」からは無縁ではいられない。スポーツ選手が内臓の病にかかることもあるし、誰からも好かれる優しい人でも恨みを抱くことはある。

逆に言うと、世の中のどこかに、あなたと同じ「苦」に苦しみ、悲しみ、嘆いている人が必ずいるはずだ。自分自身の「苦」と向き合うために、誰かと気持ちを分かち合うことはできる。時間をかけて受け入れ、乗り越えていくことが、幸せに生きる近道になるだろう。


[1] 「ブッダが説いた幸せな生き方」 今枝由郎(岩波新書)
[2] https://shinto-bukkyo.net/bukkyo/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E7%9F%A5%E8%AD%98%E3%83%BB%E4%BD%9C%E6%B3%95/%E4%BA%94%E8%98%8A/

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