彫刻の価値観をも変えた偉大なる彫刻家
ロダン、正式名称「フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン」は「考える人」や「地獄の門」などで有名な19世紀を代表とするフランスの彫刻家である。
素晴らしい作品を数多く生み出したロダンだが、同時に彫刻に対する価値観の変化にも大きな寄与をしている。当時の彫刻は「造形的にできるだけリアルなものを作る」ことが重要視されていた。だがロダンが彫刻家として有名になってからは「以下に作品に魂を宿らせるか、生き生きとした臨場感ある彫刻が作れるかどうか」ということが重要にされるようになった。
ロダンの主な作品
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ロダンが彫刻家となったのはを23歳の時と、実はかなり遅い。若いときは美術学校に通い絵画などについて学んでいたが、卒業後は室内装飾の職人として生計を立てており、彫刻の仕事はしていなかった。
そんなロダンが彫刻と出会ったのは、動物彫刻家であるアントワーヌ・ルイ・パリーに会って弟子入りをしたことがきっかけである。だがパリーから彫刻について学んだものの、家庭を持って間もない時期であり生活費を稼ぐことが何よりも優先であったことから、彫刻の世界を離れ装飾職人としての仕事をしたり、ベルギーに移住してブリュッセル証券取引の建設作業に従事したりとしていた。
彫刻家としての転機が訪れたのはイタリアへ旅行したときのこと。ドナテロとミケランジェロが残した彫刻を見みたことで感名を受け、彫刻づくりの情熱が復活。改めて彫刻家としてスタートすることになった。
フランスに戻り十数年ぶりに彫刻家としての活動を再開したロダンは実在する男性をモデルにした「青銅時代」という彫刻を作り上げた。
かなり細部まで緻密かつリアルに作られていたため、作品をみた人たちからは「実際の人間から型を取ったのではないか」との疑いの目を向けらることもあった。だがこの作品を皮切りに彫刻家ロダンの名前はフランス中に行き渡ることになる。
40歳のときに国立美術館に飾るモニュメントの制作を受けたロダンは「地獄の門」の制作に着手。ただしデッサンなどの構想がまとまらず作業は難航、国立美術館の建設が中止になったこともありロダンが存命中に地獄の門が完成することはなかった。
48歳のときにロダンは「地獄の門」を覗き込む男性の彫刻を作成した。当初は「詩想を練るダンテ」と名付けられていたが、彫刻を鋳造した方から「考える人」という名前を与えられ、その名前と彫刻の様子があまりにも一致していることから、以降はそちらのほうが有名になってしまった。
そして1917年11月17日、ロダンは「パリに残した若い方の妻にあいたい」という言葉を残して77歳でこの世を去った。