チェコの画家であり、アール・ヌーヴォーを代表するイラストレーターとして知られるアルフォンス・ミュシャを紹介します。
***
こんにちは。人から分かる3分美術史。
今日はアルフォンス・ミュシャについて勉強していきましょう。
アルフォンス・ミュシャ。1860年生まれ。チェコの画家であり、アール・ヌーヴォーを代表するイラストレーターとして知られます。
ミュシャは、当時オーストリア帝国領であったチェコのモラヴィア地方で、裁判所に務める役人の子供として生まれました。
少年の頃のミュシャは当初音楽家を目指しますが断念。幼い頃より絵が巧みであったことから、画家を志すこととなります。
19歳でウィーンに移住し、演劇の舞台装置を作る工房で働きました。そこでミュシャは、当時ウィーン画壇の頂点であった画家、ハンス・マカルトに大きな影響を受けます。
しかし1881年、工房の縮小に伴い失業。モラヴィア地方に戻ったミュシャは、地元の貴族のパトロンを得て、パリに留学。ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル、ジャン=ポール・ローランスらに学びました。
1888年、29歳になったミュシャは、パトロンからの金銭支援を終了し、画家として独り立ちすることとなりました。
その初期の作品が「ジュディット・ゴーティエ『白い象の伝説』挿絵」。アカデミックで精緻なイラストとなっています。
ミュシャの転機となったのは、1984年、女優サラ・ベルナールからのポスター制作依頼でした。年末の印刷所で偶然手の空いていたミュシャは、サラ主演の舞台「ジスモンダ」のポスターを制作。それが評判となり、人気の画家として一躍注目を集めることとなります。
ミュシャの作品を見ていきましょう。
「黄道十二宮」。1896年、ミュシャ36歳の頃の作品です。また、当時登場してきた美術運動であるアール・ヌーヴォー(新しい芸術)の代表的な作家として、ミュシャは見なされるようになります。
「スラヴ叙事詩 スラヴ式典礼の導入」。1912年、ミュシャ52歳の頃の作品です。1910年にチェコに戻ったミュシャは、20点からなるシリーズ「スラヴ叙事詩」を制作し始め、死ぬまでそれを続けることとなります。
1918年にはチェコ・スロヴァキア共和国が樹立。ミュシャは切手や紙幣を無償でデザインするなど、スラヴ民族のために献身的に活動しました。しかし、1939年にナチス・ドイツによりチェコ・スロヴァキアは解体。ミュシャも逮捕され、その疲れからか、1939年に78歳で亡くなります。
以上!